愛知県と防衛省の“不思議な縁”。
睦月奔走。昨日は東京(防衛省での陳情)、一昨日は鳥羽市(斉藤たかお名古屋市会議員の伊勢初詣でご挨拶)、で今朝は鈴鹿市(水野富夫愛知県議会議員、北名古屋市会議員の伊勢参りでご挨拶)。
(※写真は、防衛省内にある佐藤正久防衛大臣政務官室で。右から佐藤正久防衛政務官、山下隆義北名古屋市議会議長、水野富夫愛知県議会自民党防衛議員連盟会長、高山萬三清須市議会議長、寺西むつみ)
さて、今から遡ること、およそ350年。
1656年(明暦2年)、徳川御三家のひとつである尾張徳川家(第2代光友公)が、第4代将軍家綱公より5万坪を拝領し、市ヶ谷台に上屋敷を築いた。これが明治維新後に尾張徳川家から返上され、その後、明治7年(1874年)に京都兵学寮が移転されたことを皮切りに、軍事(防衛)に関する拠点としての歴史の変遷を経て、今日に至っている。現代の“国防”のはじまりは江戸時代の“愛知(尾張徳川家)”から?だったのです。
(※上の写真は、市ヶ谷台の歩みを残すために防衛省敷地内で移設された「市ヶ谷記念館」。写真に見える2階バルコニーは、作家・三島由紀夫氏が“最後の演説”を行ったあまりに有名なあの場所である。)
「市ヶ谷記念館」の一階にある(移設前当時は二階)陸軍士官学校の大講堂。昭和21年5月から同23年11月までの間、ここが極東国際軍事裁判(東京裁判)の法定として使われたこともあまりにも有名である。正面ステージ上には「玉座」と記されている。近代日本、歴史の現場、市ヶ谷台を訪れる機会をいただけたことに感謝。